厚木市商業の歴史と商店街

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【厚木市商業の歴史と商店街】

厚木市商店会連合会は昭和35年10月、厚木市、厚木商工会議所の指導のもと厚木地区10商店会(平成24年4月現在18商店会)の連合体として設立され連合会活動を行ってきた。
昭和51年に入り厚木市の発展に伴い、市街地の拡充、市郊外の開発が進み急激な人口増加によって、地域の商店会組織も漸次拡充強化された。

厚木市商業の歴史は古く、江戸時代は小江戸と言われていた。
往時の相模川の水量は非常に多く、相模川に沿った街道(現在県道酒井金田線)には、多くの豪商が自家用の船と船頭をもち、この水運を利用して近郷近在の生産物を相模川河口の須賀柳橋に運び、 帰りには生活用品など数多くの商品を積んで、厚木から更には上流の各地へと船で運ばれたものであった。
このように古くから厚木の商業は相模川とともに栄えてきたと言える。
明治の中頃東海道本線が開通し、道路の拡巾もあって荷馬車による陸上輸送に移っていったが、昭和初期頃まで相模川を行き交うのどかな帆かけ船の姿は、相模川の一つの風物詩として、当時の人々に親しまれていた。

【昭和22年頃】

厚木町の商業団体は、昭和の初期にはすでに本町商励会、天王町商盛会、仲町革新会、及び大手町自治振興会の4団体があったと言われた。
相模川に沿った大通りの本町(現在の東町)から南の仲町までに商店が立ち並び、南北の旭町元町にも年を追って商店の数も増えていった。
現在の中央通りは中学通りと呼ばれ、商店とともに料理屋そばや居酒屋などの飲食関係の店が次第に増加して、裏手の弁天町にかけ、厚木の花柳界として発展していった。
又その頃相模川に屋形船を浮かべて遊ぷ、厚木の遊船会(鮎漁)も盛んになった。
当時本町通りは東京の銀座にあやかって、厚木銀座と名乗ったのも一つの宣伝と反映の現われで、7月の厚木神社の例大祭(厚木ふるさとまつりの前身)は厚木のお天王様と言われ、厚木神社の境内にはいくつかの見世物小屋がかかり、大通りの本町から天王町仲町にかけては、多数の露天商が並んだ。
近郷近在の農家では、このお天王様のくる日を農作業の一つの区切りとしてきたほどで、子供達もこの日を指おり数え下楽しみにしており、祭り当日の大通りは近郷近在からも大勢の人が集まり大変な賑わいであった。
しかし昭和12年の支那事変の勃発から、昭和16年の第2次世界大戦へと戦争も激しさが加わり、次第に生活必需物資が統制となり、業界の統合も行われて終戦までの間、すべての物資が配給制度となった。
昭和20年8月終戦によって米軍が厚木飛行場へ進駐の第1歩を印したが、終戦直後は物資の統制は解除されず闇物資が横行し、物価の急上昇もあって、しばらくの間わが国経済の混乱期が続いた。
ただ米軍の進駐によって駐留軍相手のスーベニヤショップ(土産品店)が、大通りのあちこちに店を開き、怪し気な英語が飛び交う一時期もあった。

【あつぎ鮎まつり変遷昭和48年・36年】
【昭和43年ごろ「本厚木駅」】

(掲載写真:厚木・愛甲の100年より抜粋)

昭和22年に入り生活用品も出廻るようになり、厚木の商店の営業活動も次第に活発化していき、翌23年8月には商工業者、観光協会等厚木の町が一体となって、戦後第1回の厚木鮎まつリが行われ、年を追って7月のお天王様8月の鮎まつりは、厚木商業界挙げての行事として活況を呈するようになった。
昭和30年2月、厚木町が近隣4ヶ村と合併して厚木市の誕生となり、日本経済の高度成長の波にのって、厚木が戦後の更に飛躍する過程へと入っていった。
昭和30年には相模大橋が開通、本町にあった相模橋が取りこわされ、町の中心街が除々に中学通り(現在の中央通り)小田急通りに移行していったのもこの時期からであった。
相模大橋の架橋によって2級国道となった中学通りも巾員12mに拡巾された。
商店街も防災街区として全長300mにわたって建替えされ、近代的な商店街として昭和42年に完成をみた。
又、名称も従来の中学通りから中央通りと改められ、名実共に厚木市の中心商店街となって、この開発状況視察のため、他県他都市の関係者が数多く未街した。

【昭和22年頃】

(厚木市HPより抜粋)

昭和43年には東名高遠道路が開通し厚木インターチェンジが開設されて、翌年には厚木小田原道路もでき、これらを結ぷ各国道も整備されていった。
この道路網の整備は厚木市の産業経済に画期的な影響をもたらす結果になった。
特にわが国の東西を結ぷ大動脈東名高速道路の出現は、市内への工場進出を促進し、厚木インター周辺には首都圏及び東日本と西日本を結ぷ流通の拠点として流通団地が形成され、倉庫業卸売業運輸業など多数が進出し、従来の厚木のイメージを一変させた。
又、一方内陸工業団地の造成、大型プロジェクトによる鳶尾住宅団地、毛利台住宅団地など、大規模な住宅団地の開発は、一人口の急増を呼び厚木市の急速な発展を約束させた。
特に本厚木駅周辺の連続立体化の完成と駅前地域の整備は新しい商業街区を形成し、多数の都市銀行の進出と大型店の出店を促し、急速に中心商業地への色合いを強めていった。
又、郊外におけるいわゆる近隣型の商店会も、地域開発の進展、人口の急増等から商店数も増加しその組織も拡充強化されていった。

【本厚木駅北口広場前】
【北口広場、なかちょう大通り方面】
【一番街通り】

(掲載写真:まちカード神奈川厚木より抜粋)

現在、小田急本厚木駅の乗降客は、1日20万人以上でその数は年々急上昇していると言われている。
全国の大都市周辺の衛星都市のうち、昼問人口が夜間人口を上回っているのは、厚木市と国際空港を持つ成田市だけと新聞報道されているとおり、他都市に見られない現象になっている。
これからも厚木市の商業の重心は、本厚木駅周辺を中心にして進展して行くものと考えられる。
しかし、江戸時代から長い繁栄を続けてきた東町天王町が、このわずか40年間ほどで、当時ほとんどが田圃であった厚木一番街・駅前大通り以西へと中心街が移行していったことを思うとまさに隔世の感があり、当時を知る人は夢想だにしなかったことであろう。

【思い出の写真】

〜平成7年10月発行厚木市商店会連合会「35年のあゆみ」より〜

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